人生は苦しむもの VS 人生は楽しむもの
死に起きです。
僕たちは一体何のために生まれてきたのか。
人生はなんの為にあるのか、ということを考えるのは全人類のテーマであると考えています。
その答えは各人それぞれ出していますが、それを大きく二分するとこうなります。
『人生は苦しむもの』
『人生は楽しむもの』
さて、それぞれの意見はどのようなものでしょうか。
◆『人生は苦しむもの』 修行を通して魂のレベルを上げる
まず、この世は仏陀の言うように苦しみであふれています。
四苦八苦。
生・老・病・死が四苦。
それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦が加えられて八苦となります。
生きていれば苦しみは避けられない。
ではなんの為に苦しみが存在するのかというと、それによって人間的成長を発生させるためであります。
社会は若者に成長を求めてきますが、つまりこれは存分に苦しめと言っているのであります。
ではなんの為に成長しなければならないのかというと、魂のレベルを上げるためであります。
魂のレベル上げることに依って、死後天国へ行くことが出来ます。
もし地獄に落ちたくないのなら、あるいは無になりたくないのなら、現実世界で善行を全うし、天国に行く資格を得なさいと。
この世は天国へ行く人間の選定試験であるということです。
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まあ「苦しみ派」の人もそれぞれまた違う考えを持っているとは思いますが、大体は「苦しむことによって成長を促す」という軸があると思います。
◆『人生は楽しむもの』 せっかく生まれてきたのだから
私達が自殺をせずに生きている理由、それは人生が楽しいからです。
苦しい世界であるならば、さっさと自殺をすれば楽になれます。
実際にこの世は苦しいものですが、しかしそれよりも楽しいことがあるからこそ私たちは生きているのです。
何故無理に苦行を行い、わざわざこの生をより苦しい方に変えてしまうのか。
この世は試験などではありません。遊園地です。
もちろん楽しむためには相応の行動が必要ともなりますが、遊園地の中ではそれすらも楽しいものではないでしょうか。
死後に天国へ行けるかどうかなど、誰も分かりはしません。
どうなるかわからない不確定要素に目を向けるのではなく、今この時に目を向けましょう。
もしかしたら、この世を一番楽しんだ人間こそ天国へ行けるのかもしれませんよ。
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ある人から見れば、刹那主義のぬるい考えに見えるかもしれませんが、こういう人のほうが実は苦しむ人よりも強かったりするんですよね。
◆完全に二分は出来ない
ここでは大雑把に二分しましたが、人間はこうも完全に二分することは出来ません。
グラデーションのように、苦しみ派の人でも濃い色にあたる人もいれば薄い色にあたる人もいる。
つまり、苦しみ派の人も人生を楽しむことはもちろんあるし、楽しみ派の人も苦しみを完全に避けて生きることは不可能でしょう。
◆やり方も違う
楽しむ派でも、楽しむやり方が異なる人もいます。
本気でゲームをやることが楽しい人もいれば、娯楽としてただやるのが楽しいという人もいます。
別々のゲームを楽しむ人もいます。
完全に二分も出来ず、やり方も違う。
ということはつまり人生とは。
投げやり?
いやいや、これは1つの答えとして成り立っています。
つまり、「生きることにはそもそも意味が無いのではないか?」ということ。
この世界があるのに目的はないし、自分が生きていることに価値はない。
虚無主義的思考。
これが気に食わないというのなら、ではもう一つの僕の意見を聞いて下さい。
苦しみも全力で甘受し、楽しみも全力で感受すること。
苦しみのパラメータと楽しみのパラメータがあったとして、どちらも多く育成すること。
それを行えば、取り敢えずは間違いはないと思います。
それが僕の出した一時的な答えです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。